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April 29, 2007

最近の若い者は・・・

E089昨日、都内某所で、ちょっと講演をした。昔、世話になったことのある大先生に頼まれて断れきれなかったのだ。最近は、宇宙旅行とか火星や小惑星の命名権やらの土地の権利とかをネタにして、怪しげな事もあるらしいので警戒した。しかし、そう言ったものでは無く、心配は全くの杞憂であった。結果的には、色々な人に会えたし、面白かったので、講演して良かった。

このブログで事前に告知しなかったのは、会場になる会議室が満員になるくらい既に予約が入っていると言うことだったからだ。

で、会場に行くと、50人弱位の人が集まったのだが、普段の『客層』と全く違うので驚いた。普段は、専門の技術者や科学者が集まる学会やら、マニアの集まる SF 大会やロフトプラスワン、宇宙作家クラブのミーティングで喋っているのだが、この場合、聞いている人は、宇宙に関して、それなりに知識がある。
ところが、昨日は、全く宇宙とは関係の無い職業でマニアでも無い人達が、「宇宙に行きたい」と言うキーワードだけで集まって居た。若い人から年を取られた方、男性も女性も居た。もちろん、男性の方が比率的には多いが、普段では、まず居ない ごく普通のOL風の若い女性とか、普通の主婦とかが居たのには驚いた。男性でも、広告代理店とかIT関係の職業など、宇宙とは縁もゆかりも無く、また、マニアでも無い方が多く居た。

用意したプレゼンテーション資料は、ターゲットを見誤って、少し専門的な部分が多過ぎ、難しい部分は出さずに話したのだが、それでも終了後に色々な人に聞いたところ、専門用語などが難しかったようだ。ただ、皆さんが「面白かった」と言って下さったのが、せめてもの救いである。

講演終了後、懇親会に出たのだが、そこでも色々と話、面白かった。
ごく、普通の人にも「宇宙に行きたい」が、ストレートに判ってもらえるんだなあ。
ちょっと、カルチャーショックだった。反省しなければならない。

ところで、その懇親会で若い人と色々喋った。若いときから、海外で宇宙関係やシステムエンジニアリングの学校に留学したりして、自分が進みたい道のために努力している人が居る。宇宙関係でなくても、他の色々な分野で努力し、自分の仕事を着実に進めていて、なおかつ、大きな夢を追おうとしている人も居る。皆、若いのに、努力し、自分の道を、自分の力で進もうとしている。
だが、残念な事に、彼らを受け入れる場所が、この国には十分には無い。それが歯がゆい。

その時、感じたのが、最初のタイトルである。
普通なら「最近の若い者は」の後は「何を考えているのか判らない」と続くところだ。
しかし、私は、そうは思わない。

「最近の若い者は、なかなかのものだ。早く日本を彼らに任せたい」と思うのだ。

最近、今回の講演だけでなく、20代から30代前半の人と話す機会が多い。
マスコミでは、フリーターとかニートとかが問題になっている世代だ。
だが、私が話をする若者達は、皆、そんなに悪くない。
むしろ、我々や更にその上の世代よりもしっかりと生きているように見える。

そう言った「しっかりした」若者は、少数派だと思っていたのだが、だんだん、そう思えなくなってきた。
あまりに、しっかりした若者が多いからだ。

なぜ、若者をフリーターとかニートとかだけでとらえようとするのだろうか?
なぜ、逆に、しっかりとした若者を、マスコミは報道しないのだろうか?

どうも、年長者は、「若者=未熟者」とのレッテルを貼りたがっているようにしか思えない。
その根源にあるのは、年長者が、若者の追い求めている「夢」を理解できないからのように思える。

若者が求めている夢は、お金を稼ぐ事でも食べる事でも無い。もっと、壮大な夢だ。もっと、芸術的な夢だ。

しかし、そんな夢を「何を現実離れした事を言っているんだ。まじめに働け。働かないと食べられないぞ」と年長者は言うだろう。それは日本が貧しく、飢えて居た時代に、育った年長者の価値感だ。
今の若者は、飢えた事も無いし、お金に困った事も無い。

だから、彼らの仕事に対するモチベーションは、お金でも食べ物でもない。

だが、彼らも考えることは考える。彼らの仕事に対するモチベーションは、もっと大きく人類に対する貢献とか芸術とか、そう言ったものに変わって来ているのだろう。

「飢えた事も無いし、お金に困った事も無い」若者を「甘ちゃん」扱いしたいのは判る。

だが、彼らは逆に、「大人」なのだ。
日本と言う国が、少なくとも経済的・物質的に一人前になってから育った彼らは、次の精神的な価値を追える「大人の国」の住人だ。
年長者の方がむしろ、「日本が子供の時代」に育った「子供の国」の住人に思えてくる。
私は、わずか一年英国に住んだ事があるだけだが、英国人の価値観は、日本の年長者よりも、むしろ最近の若者に近い。少なくとも私には、そう思える。そして、英国はアメリカよりも何処よりも大人の国なのは万人が認めるところであろう。

今、現在、その移り変わりの時代なのだと思う。
日本という国が、経済的・物質的・精神的にも、子供から大人へ変わろうとしている時代では無いか。
上手く、大人へ脱皮することができたら・・と願う。

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April 11, 2007

Debian Linux Etch 正式リリース

E088なんやかやと忙しくて、チェックして居なかったのだが、いつの間にか Debian Linux Etch 正式リリースされて居た。リリース日は、4 月 8 日となって居たが、アメリカ時間だろうから、実質的に日本では 9 日のリリースだったんだと思う。でも、うかつなことに昨日(10日)まで気が付かなかった。

Etch は、現在の無料ディストリビューションの Linux では決定版の一つなんだと思う。もちろん、 Linux の無料ディストリビューションには、他にも ubuntu を初め魅力的なものも多いが、やはり Debian Linux はメジャーかつ影響力の大きなディストリビューションの一つには違いないだろう。
にも関わらず、Debian Linux への関心の低さには驚いてしまった。ネット上のニュースにも、ほとんど話題に上がって居ない。やはり、既に Linux の「ブーム」は去ったのであろうか?

さて、未だに正式リリースされた etch を使ってないので、確かなことは言えない。が、非公式版の Etch を使って居るので、そこから推定すると、前のバージョンである Sarge のブラシアップ版と考えるのが良いようだ。もちろん、カーネルが新しくなったり、Xが X.Org になったり、日本語が UTF8 になったりと色々と新しくなり、使いやすくなって居る筈だ。だが、ユーザーから見れば、「ブラシアップ」と見えてしまうだろう。

Sarge の更に前のバージョンは Woody と言ったのだが、この Woody の時代の Debian Linux は、サーバーとしての用途なら十分使えるものだったが、デスクトップ用途には使えない OS だった。それに対し、Sarge はデスクトップとして使用に耐える OS だったから、Sarge が出た時は、「刷新された」と言う印象が強かった。

つまり、私の印象としては、「Woody から Sarge」はフルモデルチェンジ、「Sarge から Etch」はマイナーチェンジと言う感じだ。
ところが、バージョンナンバーは Woody が 3.0 、Sarge が 3.1 、Etch が 4.0 である。つまり、バージョンナンバーから言うと、「Woody から Sarge」はマイナーアップデート、「Sarge から Etch」はメジャーアップデートになっている。「印象」と「バージョンナンバー」で逆転して居るのは、どういう意味だろう?

同じような事を Firefox でも感じた。Firefox のバージョンナは、1.0、 1.5、 2.0 と上がって居る。言うまでもなくバージョンナンバーから言うと「1.0 から 1.5」はマイナーアップデート、「1.5 から 2.0」はメジャーアップデートだ。でも、私の使って居る印象では、「1.0 から 1.5」はフルモデルチェンジ、「1.5 から 2.0」はマイナーチェンジだ。

私の受ける印象が間違って居るのだろうか?

この話を、他の人にしたら、「オープンソースの場合、バージョンアップに対して自信があれば、メジャーアップ、自信がなければマイナーアップにする」と言う噂があるんだそうだ。

つまり、Woody から Sarge や Firefox の 1.0 から 1.5 のような時は、本当は内部を刷新して居るのだが、色んな要素を入れるあまり自信が無いので、マイナーアップの番号をふる。逆に Sarge から Etch や Firefox の 1.5 から 2.0 のような時は、あまり新しい要素を入れておらず、ブラシアップだから自信があって、メジャーアップの番号をふると言うのだ。

噂の真偽は判らないが、これは私の印象と一致する。


私自身が公開して居たフリーウエアを振り返ると、ちょっと違うが、同じような経験した事を思い出す。
そのフリーウエアは、3Dのモデルを表示するプログラムだったのだが、最初のバージョンは、とにかく表示するだけが精一杯の寄せ集めのコードの固まりだった。詳しいバージョン番号は忘れてしまったので、便宜上、これをバージョンAとしよう。

次のバージョンは、プログラムを整理することに集中した。具体的にはオブジェクト指向を厳密に適応し、表示する3Dモデルのデータ構造のオブジェクト化を行った。この結果、バージョンAでは、たった一つの3Dモデルしか表示できなかったのを、新しいバージョンでは、メモリの許す限り幾つでも3Dモデルを同時に表示できるポテンシャルをもたせることができた。ただし、このバージョンの公開時、同時に表示できる3Dモデル数を決める変数 n=1 とし、ユーザーインターフェースも全てバージョンAと同一とした。これをバージョンBとする。

続く、バージョンCは、複数モデルの同時表示機能をリリースした。プログラム的には大したことをしたわけではない。先程の変数 n に 10 とか 20 とか入れただけだ。ただし、複数の3Dモデルを設定できるようにダイアログを改修した。

プログラムを作って居る私にとって、バージョンAからBへの改修は大変な苦労だった。
だが、ユーザー側から見れば、機能もユーザーインターフェースも全く変更の無い「マイナーなバージョンアップ」に見えただろう。

それに比べ、バージョンBからCへのバージョンアップは、ユーザーにとって大きいものと映っただろう。機能も増え、ユーザーインターフェースも変わって居るのだから。しかし、プログラマーとしての私にとっては大きな変更では無い。

なぜ、バージョンAからBへバージョンアップの時、同時に複数の3Dモデルを表示できる新機能を追加しなかったのか?
それは、バグを恐れたからだ。

バージョンAからBへの改修では、内部のデータ構造をほとんど完全に刷新した。それがバグを生み悪影響を与えることを懸念したのだ。もちろん、一般公開前に自分でデバッグできるだけデバッグしてはいるが、それでも限界はある。一般に公開して沢山の人が使うようになると、私一人では取り切れ無かったバグが出てくる可能性が高い。

バグが発生した時に、データ構造に起因するバグか、ユーザーインターフェースなどの他の要因に起因するバグかを切り分ける必要がある。切り分けの時の繁雑さを避けるためにバージョンAで実績のあるユーザーインターフェースを、そのまま使うことにした。バージョンAのユーザーインターフェースは、単一の3Dモデルしか扱えない。そこで、バージョンBは、バージョンAと同じく単一の3Dモデルしか表示できないように機能を制限してリリースしたのだ。

バージョンBを公開し、データ構造に起因するバグを取り除いた後、複数の3Dモデルを表示するように機能制限を取り除いて、バージョンCとして、公開した。

この私の経験のような例では、プログラマーの心情としては、バージョンAからBへが「メジャーアップ」、バージョンBからCへが「マイナーアップ」と感じられる。しかし、ユーザーから見れば、メジャーとマイナーが入れ替わる。

Debian や Firefox の場合、先程の「自信があるなし」の噂か、それとも私の経験と類似した「プログラマーの心情と、ユーザーの逆転現象」か、はたまた全く別の理由なのかは定かではない。

しかし、少なくとも私が見た限りにおいて、Debian や Firefox のバージョン番号のメジャー/マイナーと、ユーザーが受け止める印象のメジャー/マイナーが逆転しているのは事実だ。

ただでさえ、オープンソースの先行きが怪しくなった現在だからこそ、ユーザーが戸惑わないようなバージョン番号をふってもらいたいと思う。

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April 02, 2007

エイプリル・フール

E087もう気が付いて居ると思うけど、一応断っておくが、昨日の「マツドサイエンティスト研究所 正式オープン」の記事は「エイプリル・フール企画」であり、全くのウソである。いや、ウソと言うよりホラだろう。
もし本当に信じたという人が居たなら、心からお詫び申し上げたい(本当に信じた人が居たのだろうか??)

内容的には、昨日の記事の「マツドサイエンティスト研究所 正式オープン」は全くの法螺話だが、そこに含まれる私の心情に嘘は無い。
私は、心の底から「マツド・サイエンティスト研究所」を造りたいのだ。

大学や国研、民間の研究所で研究されている方々の中には、昨日の記事の中で、研究対象を選択するプロセスを苦笑いと共に共感された方も多いのではないだろうか?

現在の日本(日本以外も?)の研究機関では、「論文が書けて、巧く行って、役に立つ」研究や実験しか認められない。「不可能に挑戦する」ような「失敗の可能性の高い」研究や実験などできようもない。

昨日の記事にも書いたように「不可能を可能にする研究」とは、失敗を恐れずに挑戦し、それらが十の内九つが、百のうち九十九が失敗して、はじめて一つが成功するような厳しい現実なのだ。

ところが、一方で、国家の税金を使うような大学や国研で、百のうち九十九が失敗するような研究に血税を無駄にすることはできない。

ましてや、利潤の追求が目的の民間企業の研究機関で、失敗確率の高い研究などできるはずはない。

従って、「不可能に挑戦」するためには、国の補助をあてにせず、利潤を追わず、たた「興味深い」「面白い」と言った科学者(別に博士号を持っていようが居まいが)のモチベーションだけを原動力に、研究するような場が必要なんだと考えて居る。

このようなモチベーションが、現場の科学者に全く無いかと言うと、そんな事は無い。
十年ほど前に、私の属する組織で、アフター5の集まり、つまり同好会として「恒星間飛行研究会」を主催したことがある。この時、多くの人(正確には技術者)が毎週集まり、「恒星間飛行」と言う「不可能と思える対象」について熱く語り合った。
もちろん、基本的に国税を使う私の組織で、「恒星間飛行」などと言う荒唐無稽(に限りなく近い)研究が正規の業務になろう筈もない。
しかし、決して多数派ではないが、それでも幾人かの人は、こう言った「不可能に挑戦する研究」に対して、強いモチベーションを持つことが判った。恒星間飛行研究会は、給与の出る業務どころか逆に自腹を切る必要があるのに参加する人が何人も居たのだ。(ちなみに会費は一回500円であり、その大半はデリバリーのピザに消えた。なお、野尻氏の小説「沈黙のフライバイ」に出てくる同名の「恒星間飛行研究会」では参加者が減り続けるが、現実の「恒星間飛行研究会」では参加者が減ることはなかった)

「恒星間飛行研究会」を通じて、もう一つ大きな事を知った。それは、恒星間飛行のように「業務として認められて居ない事」を議論する機会が無く、そう言った機会に飢えて居る人が大勢居ることだ。もちろん、就労時間内に業務以外の議論をすることはいけないことだ。しかし、休み時間やアフター5に至っても、そう言った話題を避けてしまう傾向にあるようだ。

「不可能に対する挑戦」は、誰も味方が居なくても、たった一人で研究を続ければ良いかと思うかもしれない。だが、一人だけで考え続けることは決して良いことではない。客観的な検証ができず、独善的な思考に入って行く危険が大きい。結果、「トンデモ系」に陥る可能性が高い。

志を同じくする仲間が、健全な議論を続ける中で、理論が磨かれ、成長し、やがて革新的なものへと昇華される。
湯川秀樹と朝永振一郎が中学・高校時代からの同級生(正確には中学時代は朝永が一年上だったが、健康がすぐれず休学、高校で同級生となる)親友だったことも、ニュートンとハレーに友好関係があったことも決して偶然では無いと思う。たぶん、彼らは個別には、それほどの高みまで昇ることは無く、お互い影響し刺激しあいながら、成長して言ったんだと思う、きっと。

小説や漫画の中のマッド・サイエンティストは、一人で大発明するが、実際は、一人だけでは、そうは大したことはできない。1+1が3に、2+2が10にと、人が集まることで相乗的な効果が生まれる。そして、それが革新的な研究には不可欠な要素なのだ。

「恒星間飛行研究会」の話に戻ると、「業務として認めれて居ない研究は、雑談の話題にすることすらはばかられる」恥ずかしい事だと思われている事実だ。
本来、画期的な研究には、志を同じくする者が集まり、議論することが不可欠だというのに、そして、同じ志を持ちモチベーションを持つ者が多数居たにもかかわらず、私の属する組織では、それを生かす土壌が(例え、休み時間やアフター5と言えども)決定的に欠いていることだ。(「恒星間飛行研究会」は数少ない例外と言える。なお、「不可能に挑戦する研究」が酒の席で話題になることはある。だが、アルコールが入った状態で真面目な検討などできる訳は無く、馬鹿話で終わってしまう)

私の経験は、私の専門分野である宇宙開発や所属する組織に片寄った経験である。だが、多少の違いはあれ、ほかの分野、例えば、生物学、医学、化学、量子力学、数学など、私の専門分野と全く事なる分野でも、同様の傾向にあるのではないだろうか?
また、私の属する組織より、ずっとリベラルな研究機関もあるかもしれないし、逆にもっと固まった機関もあるかもしれない。いずれにしろ、大なり小なり程度の差こそあれ私の属する組織と同様に、「不可能に挑戦する研究」を育む土壌に欠けて居るのではないだろうか?

10年程前の「恒星間飛行研究会」の時代以降に、私は「異種専門分野のコミュニケーションの重要性」を知った。「恒星間飛行研究会」では、メンバーが私の属する組織に限られて居た。その組織の中でも、各種の分野(たとえば、推進系や電源系、通信系と言った色々な分野)の専門家が集まっただけでも活発な議論ができた。しかし、各種の分野の専門家と言っても、所詮は宇宙関係の専門家であり、片寄りがある。
ここ何年か、交友関係が広くなるに従って、この事に気付いた。全く異なる分野のコミュニケーションは、相互に強い刺激を与える。この刺激が新しいものを生む。

どうすれば、「不可能に挑戦する研究」ができるのか?
それが「マツド・サイエンティスト研究所」である。

第一に、仕事や業務や義務から離れた場所で、自由に研究・実験・ディスカッションできる場所を設ける。
第二に、研究テーマに対して、ノルマも説明責任も無い。
第三に、その代わり給与も無い。

こう言った「研究所」を造ることが良いのではないか・・・、そう考え始めたのは、数年前だ。

もちろん、こう言った「研究所」が本当に造れるのか、極めて不確かだ。
現在は、私の頭の中で、理想論を思い浮かべて居るだけの状態で、実際に「マツド・サイエンティスト研究所」を上手く運営できるか判らない。
モチベーションだけで給与の出ないような研究所に研究員が集まるのか、他に職業を持つ人が研究を維持できるのか?
「トンデモ系」や「疑似科学」に陥らないようにできるのか、ノルマや成果を問われない状態で研究を維持することができるのか?
数え出したら、キリが無い。
そもそも、国などの補助に頼らず、実用性を問わず成果が期待できない研究では、全く利益・収入が期待できない状態では、ディスカッションに必要な会議室を借りる事すらできないだろう。ましてや、実験に必要な機器類に至っては、言わんやおやである。
「マツド・サイエンティスト研究所」自体が、青臭い荒唐無稽の理想論なのかもしれない。

だが、「マツド・サイエンティスト研究所」が本当にできたら、それは「人類への貢献」になるだろう。そう信じて居る。
今の今まで、「成果を問わない、役に立たない、論文の書けない」研究だと言い続けたのに、急に「人類への貢献」とは、どうしたことかと思われたかもしれない。それは、「マツド・サイエンティスト研究所」の研究対象は、仮に上手く行き、実現でき、役に立つことがあったとしても、100年200年かかると思われるからだ。ガリレオやケプラーの研究が本当に役に立ったのは、その死後だし、ニュートンですら、本当に「役に立つ」のは、数百年かかったのではないだろうか?
ロケットの基礎理論を作ったツォルコフスキーの研究は実現するのが極めて早く、彼の存命中に有人月着陸が成し遂げられた。この「極めて早く」実現された例ですら、実現には60年以上かかっている。
本当に「人類に貢献する」ような研究は、役に立つまで何十年も何百年もかかるものも多いはずだ。目先の成果にとらわれているような従来の研究機関では、そんな悠長な研究はできない。

だから、短期的な「ノルマや実用性」を問わない「マツド・サイエンティスト研究所」が必要なのだ。

実際に始るのは、私の定年後だろう。それまでに、まだ時間もあるし、実際に「マツド・サイエンティスト研究所」を造る良い方法でも思いつくかもしれないと、アイデアを暖めて来た。
あまり、人には言わないようにしていた。
実は、少しは言ったことがあるのだが、余り受け入れられなかった。

一人で考え続けていたのだが、半月程まえ、中須賀先生を始め、3人の研究者・科学者と夕食を取る機会があり、「定年退職したら、マツド・サイエンティスト研究所を作りたいんだ」と食事の時の話題として、冗談半分のつもりで話した。ノンアルコール状態だったし、3人が3人とも私よりも、ずっと研究所らしい研究機関で研究を続けて居る人だったので、この話が受け入れられるか不安だった。

中須賀先生は、真面目な顔で「野田さん、それは定年退職後とは言わず、今すぐ始めるべきだよ」と言い、他の2人も賛同してくれた。「マツド・サイエンティスト研究所」を実際に作る話に賛同してもらったのは、これが初めてだ。

中須賀先生は「まず、看板を掲げるんだ。最初からハードウェア(色々な実験施設のこと)を作るのは無理だから、人が集めれる場所を確保することから始めれば良い。看板を掲げれば人が集まるから、それから少しずつ進めて行けば良い」と続けた。


松戸駅(別に松戸にこだわる必要は無いのだが。そういやバンダイミュージアムの跡地は、どうなったっけ?)などの駅の近くにある雑居ビルの窓に「テナント募集中」と貼ってあると、「あの部屋を借りて、『マツド・サイエンティスト研究所』と看板を出したらどうなるかな?」と思う。
一般の人からは、何か詐欺の会社か、怪しい団体か何かと思われるんだろうな(「怪しい」と言う部分はあっていると思うけど)


この話、どうなるのか?
私にも判らない。

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April 01, 2007

マツドサイエンティスト研究所 正式オープン

E086本日、マツドサイエンティスト研究所が正式にオープンした。思えば、ホームページを開いて9年、ブログを公開して2年の長い道程であった。これまで、バーチャルな存在でしかなかったマツドサイエンティスト研究所が本日をもってリアルな存在になるのだ。

マツド・サイエンティスト研究所の本部はマツド駅から歩いて数分のビルにある。一見すると雑居ビルの一画を借りて居るように見えるが、実は、ビル全体が一つの要塞に改造してある。
二階から三階は、受付や事務所およびミーティングルームだが、四階から上は各種の実験設備だ。
四階は生物学用研究/実験施設になっており、P4クラスになっているので、遺伝子操作などの実験がやりたい放題だ。
五階は物理学系の施設で、放射線実験施設、粒子加速器、レーザー高温炉等が用意されて居る。
六階は宇宙航空関連で、熱真空チャンバーや極超音速風洞、高々度燃焼実験設備など、ロケット/人工衛星/宇宙船などの一通りの試験が可能になっている。
最上階は天文学のエリアで、赤外線干渉計や12メートル径の光学望遠鏡を始め、世界屈指の観測設備がある。難点はマツド近辺の大気や光害は天文観測に向かないことだ。
地下は、万一のために100GW級の自家発電機が三基設置してある。
もちろん、マツド・サイエンティスト研究所のある雑居ビルの裏山は、宇宙船の発射基地になっている。事あれば、裏山は真っ二つに割れ、中から巨大なロケットが現れる。

一階はカモフラージュのために、コンビニエンスストアとファーストフードの店が入って居る。
マツド・サイエンティスト研究所に用のある方は、この二つの店の間にあるエレベーターで二階の受付に行ってほしい。なお、二台あるエレベーターの内、一台は無重力実験用の落下塔に改造してあるので、くれぐれも間違わないように気を付けてもらいたい。

マツド本部では、将来手狭になることが予想されるので、支所を作る予定だ。
マツド・サイエンティスト研究所の支所は、火星と木製の間にあるD型の小惑星を改造して作られる予定だ。太陽から約4億キロメートル離れた場所にあるD型小惑星には水が豊富にある。
ここを改造して、植物を育て、自給自足の研究所を作る。
また、地上では、製造困難だったり危険性の高い実験設備を建造する。例えば、直線距離100キロメートルを超るリニア型の粒子加速器や反物質エンジンの燃焼実験施設を設ける予定である。遺伝子操作等の生物実験なら、汚染・感染の心配が無いから、何でもできる。
候補となる小惑星は、文字通りゴマンとあるので、現在、不動産ならぬ浮遊産物件の調査中だ。

リアルになったからと言って、マツドサイエンティスト研究所の本質は変わらない。
常に不可能とも思える研究対象に挑戦することが、マツドサイエンティスト研究所の本分である。

例えば、「空間を曲げる」「光速を超る」「時間を逆行する」が、この「不可能とも思える研究対象」だ。
また、「本当は可能なんだけれども、なかなか実現・実現できないことに挑戦する」事もマツド・サイエンティスト研究所の研究対象になる。
例えば、「反物質を使った推進システムの燃焼実験」とか「恒星間航行」が、この分野になる。

これらの研究・実験は面白いのだが、実用的な価値は全く無い。
いや、本当に実現可能なら、実用的な価値も在るかもしれない。が、実現可能だという保証も何も無いから、「実用的な価値が在る可能性は極めて低い」と言うのが正しい言い方だろう。
同じく研究や実験が巧く行く可能性が低いので、「論文を書ける」可能性も極めて低い。
「反物質を使った推進システムの燃焼実験」に至っては、やればできることは分かって居るので、「論文を書く」価値も無ければ、実用化の可能性も低く、その上、ガンマ線が出てくるので迷惑この上ない。

これらの理由のため、マツド・サイエンティスト研究所の研究対象は、既存の研究所では扱うことができなかった。
例えば、大学の研究としては「論文が書けない」時点で駄目だし、民間企業の研究施設では「実用性が無い」事から、利益にならないことでネックになる。
国研(国立の研究機関のこと、最近は独立行政法人になって居る)に至っては、予算獲得の時点(研究・実験のスタートの数年から十数年前)で、「論文が書ける事」なおかつ「国民の生活に役立つこと≒実用性があること」が証明されて居ないと駄目なので、「論文も書けず、実用性の無い研究」などお話にならない。

だが、研究は本来「不可能か可能か判らない領域」に踏み込まなければならないことがある。実験は「理論だけでは不可能か可能か判らないから、実際に確かめる行為」だ。
逆に言えば、すでに「不可能か可能か」の答えのある研究は、価値が薄い。巧く行くことが判って居る「実験」などは「実験」ですらない。

残念ながら、前述したように民間企業の研究所や大学の研究室/研究機関、国研では、これらの研究が扱えなかった。そこで、設立されたのが「マツド・サイエンティスト研究所」だ。

「マツド・サイエンティスト研究所」は、利潤を追求する研究をしない。また、国などから補助も受けて居ない(補助金を申請する「理由書」すら書けない)。

そのため、研究員に対する給与は一切無い。研究を志す者は、生活費を別に稼がなければならない。

その代わり、研究員には義務もノルマも無い。
研究に対する実用性などの説明責任も無い。ただ、好きな研究に没頭すれば良いのだ。そして、その研究が面白ければ、それで良い。

研究員には、給与が支払われない代わりに、マツド・サイエンティスト研究所の豊富な研究設備を自由に使うことができる。
もちろん、同じくマッドなサイエンスを志すもの同志の口角泡を飛ばすような議論を行うことも可能だ。

マツド・サイエンティスト研究所の研究員となり、研究となる事は簡単だ。
誰でも「面白い研究課題」を持って来てくれれば、研究所に参加できる。

ただし、断っておくが、「トンでも系」や「オカルト系」の「擬似科学」を扱うつもりは無い。
あくまでも「常識では不可能と思われる事」に挑戦する事が目的だが、研究の方法論は、常に科学的な論理展開や実験実証を旨とする。

とは言え、常に革新的な研究は「非科学的」とレッテルを貼られる可能性が高い。かの19世紀最大の天才と言われるケルビン卿でさえ「空気より重い物は飛ぶはずが無い」と言ったり、ニューヨークタイムズが、近代ロケットの父と呼ばれるゴダードを危険人物と決めつけたり、そう言った例は後を絶たない。

「不可能への挑戦する研究」が、必ず成功するとは思って居ない。それどころか、「不可能への挑戦する」が成功し「不可能を可能にする」事は、十に一つか、百に一つかもしれない。

だが、十に一つ、百に一つであっても良いではないか。たった一つでも「不可能を可能にする」ことができれば、マツド・サイエンティスト研究所としては十分な成果なのかもしれない。

たった一つの「不可能を可能にする研究」を成すことも、「不可能と思われる研究」を全て放棄していては、絶対に成しえることは無い。

マツド・サイエンティスト研究所は、失敗を恐れずに「不可能に挑戦する場」を与える研究所だ。
「不可能だと思われる事」に「常に真面目に科学的な方法論」で挑戦する。

そう考え続けた結論が、マツド・サイエンティスト研究所だ。

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